愛を体現する人になろう
語るは未熟、背中で示せ!
もし、あなたが「愛」について、声高々に語らなければならないとしたら、それをしなければならない理由があるのかもしれません。
「愛だ愛だ」と言う人は、本人が愛を欲しているか、愛を語らないと自分の中で保てない何かがあるのです。
…と、冒頭からかなりパンチの効いたことを言ってしまいましたが、要は、「言葉に惑わされてはいけないよ」ということです。
本来、「愛」の定義は非常に難しく、言葉で説明するにはあまりにもその言葉の示す範囲が広すぎます。
なぜなら、「愛」とは言葉ではなく、「在り方」だからです。
ここでは敢えて愛について言及しますが、本当の愛は語るものではなく、「体現するものだ」ということをまずはお伝えしておきましょう。
日本人と「愛」
そもそも、「愛」という言葉は、キリスト教と共に日本に入ってきました。
それまでは、もともと日本では「愛」というと仏教の「愛着」などで示されるネガティブな意味でしか用いられていなかったのです。
では、日本人は愛を知らなかったのでしょうか?
いいえ、逆です。
「愛」という言葉がなくても、古来より日本人はその概念を体現しながら生きてきたのです。
それは言い換えれば、調和であり、感謝であり、慈悲であり、真心であり、「おかげさま」であり、「ありがとう」であったのです。
「愛」は昔から、日本人の在り方や、生活の中に根付いていました。
人々は、その「在り方」を大切に守り、今のわたし達の世代まで受け継がれてきたのです。
愛の体現者たち
そんな神の国日本ですが、過去から現代にいたるまで変わらぬ愛の体現者たちは、わたし達の身近に存在しています。
その代表例が、自然や動物達です。
彼らは、その一生でただの一言も「愛」という言葉は口にしません。
しかし、彼らの生き方や在り方は、「愛」そのものです。
生まれてから命を終えるまで、地球上で自分の役割を演じ切る彼らの在り方は、わたし達にとても大切なことを日々教えてくれています。
愛を生きることはシンプル
本当に「愛」を生きたいと思うなら、あなたがあなたであることに感謝し、目の前の人がそこにいることを祝福し、あなたがありのままで正直に自分の人生を謳歌することです。
森に暮らす木々を見てください。
あなたの目の前を横切った野良猫を見てください。
彼らは自分を誤魔化しません。
嘘も付きません。
言い訳もしません。
どんな境遇にあっても、その瞬間を全力で生きています。
この世で一番苦しいことは、自分に嘘を付いて、自分で自分の尊厳を奪うことです。
わたし達は、ゴミを漁って生きる野良猫を見て、「可哀想に」と思うかもしれません。
しかし、彼らは嘘がない分、自分の境遇を真っ直ぐ見つめ、受け入れ、生きているのです。
もしかしたら、野良猫から見れば、どんなにいいものを食べていても自分に嘘を付きながら生きる人間を「可哀想に」と感じるかもしれません。
人間には知性とエゴがある分、ときには正直になることは辛いかもしれません。
しかし、自分に正直になることは、自分を愛することの第一歩です。
その一歩を踏み出し、「在り方」で愛を体現するとき、人は、世界のすべてが愛を表現しているものであることに気付くのかもしれません。